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今年で没後50年、三島由紀夫はなぜ自決したのか?

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日本を代表する作家、三島由紀夫(1925~1970)が自決して今年で50年になる。

今から50年前の1970年11月25日、三島が連載中の4部作『豊饒(ほうじょう)の海』最終回の原稿を編集者に渡し、その同日に自衛隊に蹶起(けっき)を呼びかけた後、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室で切腹し同志の介錯(かいしゃく)によって絶命したのである。

 目次

・三島由紀夫とは?
・三島由紀夫の生い立ち
・なぜ自決したのか?

三島由紀夫とは?

戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。また、三島由紀夫といえば、東京大学を卒業して作家になったエリートだ。代表作に「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」などが挙げられる。

YouTubeでもその肉声が残っているが、同時代の他の作家とは一線を画す凛々しい外見に加え、鍛えられた逞しい身体、言葉を丁寧に選びながら話すその所作や日本語は美しく、理想を追求しながらも高い自尊心がうかがえる。

www.youtube.com 1968年10月18年、川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整

三島由紀夫の生い立ち

生い立ちをざっくりと述べる。

三島由紀夫(本名:平岡公威)は1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町に生まれる。1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。幼年期から「詩を書く少年」で初等科から読書に親しみ文学少年だった。

少年時代は、ラディゲ、ワイルド、谷崎潤一郎のほか、海外作品にも多く触れる様になった。 1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。

大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の説得により、同年10月1日には東京帝国大学法学部法律学科(独法)に推薦入学した。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』が七丈書院で出版された。1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。

しかし、役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足を不安視した父親の勧めもあり、1948年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出した。そこから三島は執筆活動に専念していったのである。

 

【代表作】
仮面の告白(1949年)

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潮騒(1954年)

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金閣寺(1956年)

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鏡子の家(1959年)

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憂国(1966年)

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豊饒の海(1967年)

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なぜ自決したのか?

三島由紀夫は1970年11月25日に三島事件を起こした。上記でも触れたが、自衛隊に蹶起(けっき)を呼びかけた後、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室で切腹し同志の介錯(かいしゃく)によって絶命したのである。

 三島事件とは?
憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。

三島は憲法改正を求めていた。戦争に負けた後、敗戦国として戦後の日本を将来を憂いたのが理由として挙げられる。

当時、三島ほど日本の将来を真剣に考えていた人物はいなかった。50年後の今の日本を三島が見たらどの様に感じるのであろう。

 晩秋のこの時期、三島作品に触れながら50年前の情景に、思いに耽けてみてはいかがでしょうか。

 

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